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岡山地方裁判所 昭和56年(行ウ)15号 判決 1990年8月07日

原告

小野千秋

右訴訟代理人弁護士

奥津亘

佐々木斉

大石和昭

被告

倉敷労働基準監督署長鈴木敏正

右指定代理人

北村勲

小坂田英一

物部勝己

黒住嘉明

小林康弘

笹野時男

被告訴訟代理人弁護士

片山邦宏

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が、昭和四九年五月八日付をもって原告に対してなした労働災害補償保険法による療養補償給付を支給しない旨の処分を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、昭和一七年兵役終了後岡山県巡査、青果物商等を経て、昭和三九年一月ミフロン株式会社(以下「ミフロン」という。)に入社した。

2  原告は、右入社以来、ミフロン連島工場において塩化ビニールを原料とする合成樹脂すだれ、ストロー等の製造業務に従事していた。

3  原告は、右業務の過程で、その製造工程で使用される鉛に曝露して鉛中毒に罹患し、昭和四七年六月一二日、水島協同病院において鉛中毒と診断された。

4  原告は、昭和四七年八月三一日、被告に対して労働者災害補償保険法に基づき療養補償給付を請求したが、これに対し、被告は、昭和四九年五月八日、鉛中毒とは認めないとして、療養補償の給付をしないとの決定(以下「本件処分」という。)を行なった。そこで、原告は、労働者災害補償保険審査官に対し審査請求をしたところ、昭和五〇年七月五日、右審査官は、右審査請求を棄却するとの決定を行なった。原告は、更に同年九月一日、労働保険審査会に対し再審査の請求をなしたが、同審査会は昭和五六年二月二六日これを棄却するとの決定をなし、右決定は同年三月二三日に原告に通知された。

5  しかしながら、原告が鉛中毒であることは以下の各事実等から明らかであり、これに反する認定を基礎とする本件処分は違法であって取消されるべきである。

(一) 作業環境について

(1) ミフロンは、原告が勤務していた当時、塩化ビニールすだれ等の製造を行なっていたものであるが、右製造過程ではステアリン酸等鉛化合物を使用しており、右製造業務は鉛中毒予防規則(昭和四二年労働省令第二号)一条五号チにいう「鉛業務」に該当していた。

(2) 右製造業務の過程は、工場二階に設置されたミキサーに原料等とともに鉛化合物を投入して加熱しながら撹はんし、一二〇度に上昇したところで空気によってとおしの上に吹き出してミキサーから降ろし、ホッパーへ運搬して一階の打出し機に降下させ、成型作業に用いるというものである。右鉛化合物の混入した原料等は、加熱されて乾燥した粉状となるので、右の各過程、特に、ミキサーからとおしへの吹出しの際やホッパーへの投入の際、あるいはホッパーから押出し機に降下する途中での詰まりを解消するためこれをたたく場合などに、著しい粉塵となって空気中に舞い上がった。

右作業中、作業場に設けられていた一か所の窓は、外部への粉塵の飛散による公害の発生を憂慮して、常時閉められていた。

(3)イ 昭和三六年六月一五日、岡山大学緒方教授らによって作業環境調査が行われ、その結果、ミフロン連島工場においては、以下の値が測定された。

二階中央 〇・一一mg/m3

撹はん機投入時 〇・一八mg/m3

撹はん機より取出時 〇・一五mg/m3

手ふるい 一・五四mg/m3

ホッパー投入口 一・一二mg/m3

当時の許容濃度は〇・一五mg/m3であり(日本産業衛生学会勧告値。現在は〇・一mg/m3)、右数値の多くは、これを上回るものであった。

ロ また、昭和四六年七月に倉敷労働基準監督署によって製簾業作業環境調査が行われ、ミフロン連島工場においては、繁忙時の二分の一から三分の一という操業状態であったにもかかわらず、気中鉛量として、ミキサー部で〇・三七二mg/m3、一・五六六mg/m3、フルイ付近で〇・二四mg/m3、一・四五二mg/m3という許容濃度を大きく越える値が測定された。

右調査の際には、局所排気装置につき、ミキサー部のフードは改善の必要がある状態であり、ダクトの掃除はなされておらず、フルイ部のものには破損が多数認められた。また、カドミウム粉塵も存在し、場所によっては高い濃度を示していた(フルイ機で〇・〇五六mg/m3)。原告が勤務していた連島工場よりも新しいミフロン矢掛工場においても、許容濃度前後あるいはそれ以上の濃度を示していた。

(4) このように、原告が従事していた当時、ミフロン連島工場の作業場における鉛曝露の状況は極めて劣悪であった。このことは、<1>水島協同病院医師松岡健一が、昭和四六年ころミフロン連島工場を訪問したところ、保護機械等が破損し、粉塵が累積し、作業環境が劣悪であった旨証言していること、<2>操業停止後である昭和四九年八月一六日、当時岡山大学医学部衛生学教室講師であった太田武夫が行ったミフロン連島工場の作業場に堆積していた粉塵の分析によっても、相当量の鉛が検出されたこと、<3>同年一〇月七日に、岡山労働者災害補償審査官渡辺盛が右工場を調査のため訪問し、その結果として「施設及び作業環境は請求人(原告)の申立の如く決して良いものではなかった」旨報告していることからも明らかである。

(5) 原告は、入社以来この職場において配合作業、成型作業等に従事していたものであるが、労働の分担、担当係等が整然と区分されたり厳格に守られていたわけではなく、適宜に融通されていたので、原告は常に、鉛曝露の程度が特に高い配合作業にも従事していた。しかも、各作業は同一建物内で行なわれ、各仕事場も整然と区別されていなかったから、配合作業以外の作業を行なっていたときでも、高い鉛曝露を受けていた。

また、右職場には、休養室その他の施設も存在せず、食事、休憩も同一の職場内で行われていたので、極めて長時間の時間外労働を含む労働時間中、原告は常時鉛粉塵の飛散する工場内にいた。

(6) これらに鑑みると、原告が前記作業に従事していた当時、多量の鉛粉塵を吸入したことは容易に推測されるというべきである。

(二) 原告の症状

原告は、ミフロン入社前は健康でほとんど病気をしたことがなかったのに、入社後、昭和三九年六月ころには、すでに左足関節痛、腹痛、食欲不振等の症状を有するようになった。そして、昭和四一年四月以降多数の医療機関で受診したが、その際の具体的な症状は、上記のもののほか倦怠感、易労感、関節痛、両手足の微細な振戦、疝痛、便秘、多発性末梢神経障害等多数に及んだ。これらの症状の多くは鉛中毒によって発生しうるものである。

(三) 各検査の結果

原告は、昭和三九年以降その生体反応につき各種の検査(尿中鉛、血中鉛、コプロポルフィリン、赤血球中デルタアミノレブリン酸脱水酵素活性値(ALA―D)、尿中デルタアミノレブリン酸(ALA)、誘発鉛の各検査)を受けている。そして、それらの多くの検査結果は、原告が鉛中毒であることを裏付けている。右諸検査によって、別表一のような値が測定されている。

また、原告は、同四七年から四八年にかけ延べ六五回にわたりCa―EDTAによる誘発試験を受けているが、それによると、大部分の日において、一日量五〇〇μg以上の尿中鉛が検出されている。

(四) 後記被告主張のとおり、鉛中毒であるかどうかの判断を補足するものとして、通達による鉛中毒の認定基準(以下「認定基準」という。)が作定されている。

これは、労働省部内における指針としての拘束性があるだけであり、法律上は労働者災害補償保険法にいう「業務上の疾病」(同法一条、七条)に該当するかが問題である。しかるときは、労災保険の目的、趣旨に沿った解釈がされなくてはならない。また、認定基準をデーターが厳格に充足していなくても、総合的な判断でもって救済が図られなくてはならない。

この見地から、認定基準を中心として原告に関するデーターを解釈すると、以下のとおり、容易に鉛中毒と認定しうる。

(1) 昭和三九年六月時点において

イ 原告が入社した昭和三九年一月ころのミフロンにおける鉛曝露の状況が、許容濃度をはるかに越えていたことは前述のとおりである。

ロ 同年六月の鉛健康診断の検査によれば、全血比重は一・〇四四で、基準値一・〇五三未満を充足し、血色素量は一〇・七g/dl(ザーリー六七%を換算)で基準値一二・五未満を充足し、好塩基斑点赤血球と血中鉛量の相関関係によると、好塩基斑点赤血球六‰は血中鉛一三〇μg/dlに該当するので、血中鉛量六〇μg/dlを充足している。

他に、貧血の原因と考えられる原因は存在していない。

ハ 左足関節痛、腹痛、食欲不振等の症状は、既に昭和三九年六月にも存在したと推測される。

ニ これらを総合すると、昭和三九年六月の段階において原告は鉛中毒であったと認定しうる。

(2) 昭和四七年八月までの時点について

イ 昭和四六年七月ころのミフロンの気中鉛量が強濃度を越えていたことは前述のとおりである。

ロ 昭和四七年六月一〇日の検査結果によると、赤血球数、血色素量がいずれも基準値を充足し、血中鉛、尿中鉛はいずれも基準値を越えている。ただ、尿中コプロだけが基準値を充足しない。ただ、二箇月後の八月三日には一二五μg/lと基準値に接近している。データーは生体による個人差があるから、必ずしも同日、同時点においてすべてを充足している必要はない。一定の期間を一体として観察すれば足りる。

尿中コプロについては、昭和四六年五月には二四九μg/l、同六月には一六八μg/lと基準値を上回っている。

ハ この時点における自覚的症状は疝痛、しびれ感、握力低下、筋肉痛、脱力感、腹痛感を訴えている。

ニ このような各検査結果を総合するなら、この時点に鉛中毒と容易に認定しうる。

(3) 昭和四九年七月の時点について

イ 原告は、この時点において、岡山大学医学部衛生学教室で各種の検査を受け、別表一(略)のとおりの結果を示した。

ロ また、その自覚症状も前記不眠、手の振せん、食欲不振等が、前記症状に加わっている。

ハ 右検査結果は、いずれも基準値を充足しており、明白に鉛中毒である。

以上のとおり、原告は、右の三つの各時点において、いずれも鉛中毒と認定しうる。原告は、原告が鉛中毒に罹患した時点として、右の三つの時点を順次予備的に主張する。

(五) 鉛中毒治療による症状の軽快

前記のとおり、原告は水島協同病院においてCa―EDTAによる誘発試験(治療)を受け、誘発鉛の高値を示したが、多数回にわたる右試験(治療)の結果、原告の症状は徐々に軽快の方向に進んだ。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1は認める。

2  同2は認める。

3  同3のうち、原告が水島協同病院で鉛中毒の診断を受けたことは認め(ただし、診断日は昭和四七年八月三日である。)、その余は争う。

4  同4は認める。

5  同5のうち、冒頭の点は争う。

(一)(1) 同(一)(1)の事実は認める。

(2) 同(2)の製造工程は大筋で認めるが、製造機械は時期が下るとともに改良されている。また、右製造工程中原料等が粉塵となって空気中に舞い上がるのは、主として原料を配合、混合し、ホッパーへ投入する過程であって、原料入荷や成型作業での鉛の曝露の程度は少なかった。

(3) 同(3)のうちイは認め、ロは争う。当該調査は、全体の構成が不分明で、実際に原告主張のような資料、数値を示していたか疑問である。仮に、示していたとしても、早急に改善の措置がとられたはずであるし、<1>原告は、昭和四六年五月から同年一二月までの間療養のため休業していたので、そのような作業環境下では稼働しておらず、そのような鉛の曝露を受けていないこと、<2>原告主張の空気中の鉛量(許容濃度の一〇倍程度)の作業環境下で稼働しても、典型的な重篤な鉛中毒が発症するにはよほど大量の鉛の吸収摂取がなければならないし、そのような大量の鉛を吸収しておれば、必ず鉛による生体反応が生じていなければならないところ、右調査のころ、原告にはこれが見られていないこと、などに鑑みると、原告の主張を認める根拠にはならない。

(4) 請求原因5(一)(4)の鉛曝露の状況は争う。同<1>及び<2>の事実は知らない。同<3>は認める。

(5) 同(5)のうち、原告が入社以来配合作業、成型作業に従事していたことは認めるが、その余については争う。

(6) 同(6)は争う。

(二) 請求原因5(二)のうち、ミフロン入社前の健康状態については知らない。昭和三九年六月ころにすでに左足関節痛、腹痛、食欲不振等の症状を有するようになったとの点は否認し、その余の事実は認める。

(三) 同(三)の前段のうち、原告が各検査を受け、別表一(略)記載の結果が出たことは認めるが、その多くの検査結果が鉛中毒であることを裏付けているとの主張は争う。後段につき、原告が主張のような誘発試験を受けたことは認め、その余は争う。

(四) 同(四)の冒頭の主張のうち、通達の存在及び内容は認めるが、その余については争う。

(1) 同(1)のイは知らない。ロのうち検査結果が別表一記載のとおりであったことは認め、その余は知らない。ハ及びニは争う。

(2) 同(2)のイは否認する。ロのうち別表一のような検査結果があることは認めるが、その余は争う。ハは認め、ニは否認する。

(3) 同(3)のイ及びロは認め、ハは争う。

(五) 同(五)のうち、原告が誘発試験を受けたことは認めるが、その余は争う。

三  被告の主張

以下の各事実を総合すると、原告の疾病は鉛中毒ではなく、その業務に起因するものではないから、本件処分は適法である。

1  作業環境について

昭和三九年六月の作業環境調査以後、ミフロンに関しては別紙二(略)の1の作業環境測定がなされている。これによると、同年一二月以降、ミフロンにおける空気中の鉛濃度は許容濃度以下であり、ほとんどすべての労働者に鉛による健康上の悪い影響が見られないと判断される状態であった。

2  原告に対する鉛健康診断の結果

(一) 労働基準法七五条二項、同法施行規則三五条一四号(本件処分当時)にいうところの鉛中毒であるかの判断を通達で補足するものとして、認定基準が作定されている(昭和三四年一〇月八日付基発第六九三号通達(昭和三九年九月八日付基発第一〇四九号通達により一部改正)による認定基準が、昭和四六年七月二八日付基発第五五〇号通達により改正され、その後、労働基準法施行規則三五条の改正に伴い、昭和五三年三月三〇日付基発第一八七号通達により文言の修正が加えられて現在に至ったものである。)。その内容及び運用の骨子は、別紙三記載(略)のとおりである。ここに示されている数値は、鉛中毒を疑わしめる症状のうち軽微なものが発現することもありうるとの考えのもとに、早期発見、早期治療の見地から定められているものであって、これに該当しないものを鉛中毒でないと判断しても誤りではない。また、個々の事例における検査数値が、認定基準に示された数値を満たしているか否かを検討する場合においては、単に機械的にあてはめるのではなく、経過を総合的に判断すべきである。即ち、高い数値(貧血に関する検査項目については低い数値)のみを拾いだして着目するのではなく、検査を行なった時点までに鉛の曝露を離れてからどの程度の期間が経過しているか、除鉛剤の影響が考えられるか、検査所見相互の間に矛盾はないか、血中鉛濃度等と徴候又は症状との間に、鉛に関する量―影響関係に照らして矛盾はないか、その他多方面から検討を加える必要がある。

(二) 岡山大学医学部小坂、緒方両教授らによる特殊健康診断(以下「鉛健診」という。)の結果(その内容は、別紙四記載<略>のとおりである。)によると、昭和三九年六月の第一回健診時においては軽度の貧血と好塩基点赤血球数の増加が認められるほか、尿中へのコプロポルフィリンの排出量が境界領域にあったことが認められる。しかし、要観察と判定されたものの、未だ、鉛中毒としての治療の必要は認められなかった。それ以後は、昭和四一年六月の第五回健診時に尿中コプロポルフィリンが一七三μg/l、昭和四二年七月の第六回健診時に赤血球数が四一〇万を示しているのが目につく程度で、その余の指標の数値は正常範囲内にある。また、第一回の健診より昭和四六年八月の第一五回健診までは医師が直接原告に面接して問診並びに診察を行っているが、原告については鉛中毒を疑わしめるような自覚症状は全く認めていない。なお、昭和四七年三、四月に行われた第一六回健診においては医師の面接に代えて問診票が使用されており、その際原告は多彩な自覚症状を訴えているけれども、血液及び尿の各検査結果では異常は認められなかった。

原告は、入社以来昭和四七年三月までの間、鉛健診においては、鉛中毒と診断されたことはなかった。

(三) 鉛健診以外に行われた尿中鉛の検査結果をみると、次のようになっている。

(1) 昭和四一年八月二五日から同月三一日までの間、五回にわたって除鉛剤であるCa―EDTAを投与した時の尿中鉛濃度は、六六ないし一三三μg/l、平均一〇三μg/lであった。

(2) 昭和四二年四月六日から同月一〇日までの五日間、防塵マスクを使用しないときの尿中鉛濃度は、三二ないし四六μg/l、平均三八μg/lであった。

(3) 昭和四二年四月一六日から同月二〇日までの五日間、防塵マスクを使用したときの尿中鉛濃度は、一二ないし二三μg/l、平均一八μg/lであった。

(4) 昭和四三年一月一日から同月三日までの三日間、休業中の尿中鉛濃度は、二五ないし五八μg/l、平均四五μg/lであった。

これらの数値は、認定基準の尿中鉛濃度一五〇μg/lに照らすと、正常範囲内にあったといえる。

(四) 以上の結果によると、原告は昭和三九年六月ころには鉛による影響があったものと推定されるが、認定基準に照らすとき、未だ鉛中毒の状態にあったとはいえない。また、それ以後昭和四七年三、四月ころまでの期間においては、時に尿中コプロポルフィリンの増加や赤血球数の減少を示した時期があるが、その時期におけるその他の指標は正常範囲内にあって、鉛中毒の認定基準に照らし、これまた鉛中毒には該当しない。

なお、原告は、昭和四七年三、四月以降同年七月二三日ころまで成型作業に従事したうえ、退職している。ミフロンにおけるビニール製簾等の製造作業中、鉛曝露を受けるのは配合作業の工程が主であり、成型作業での曝露はそれより少なかったから、原告のこの時期における鉛曝露の程度は、それ以前の配合作業の時期におけるそれより低かった。したがって、昭和四七年三、四月以降の時期においても、原告が鉛中毒の状態にあったとはいえない。

(五) 原告は、松岡医師による検査結果を挙げて、原告は鉛中毒に該当する旨主張する。

しかしながら、

(1) 右検査結果は、以下のとおり不合理な点が多く、信用できない。

イ 昭和四六年五月二四日及び同年六月三日の検査結果について

右両日の尿中コプロポルフィリン濃度の数値は、いずれも基準値を越えている。原告は、同年五月一〇日から同年一一月二一日まで療養のため休業中であったから、右検査数値は鉛の曝露を受けていないときのものである。鉛の曝露から離れると尿中コプロポルフィリン濃度は減少するはずなのに、右検査数値は、右療養期間の前後で配合又は成型作業に従事して鉛の曝露を受けていたときの尿中コプロポルフィリン濃度よりも高い数値を示している。また、同年五月二四日の検査結果では、尿中コプロポルフィリン濃度は二四九μg/lと認定基準を大きく越えているのに、同日の血中鉛濃度は四〇μg/dlで、認定基準を下回っている。一般に、血中鉛濃度が増加すると、それに伴って尿中コプロポルフィリン濃度も増加するのが通常であって、血中鉛濃度が四〇μg/lであるのに対し、尿中コプロポルフィリン濃度が二四九μg/dlであるということはありえない。

ロ 昭和四七年六月一〇日及び同年八月三日の検査結果について

尿中鉛濃度及び血中鉛濃度とも認定基準を大きく越えている。

しかし、六月一〇日は鉛曝露の程度が配合作業より低い成型作業に従事し始めて約三か月経過したころであり、八月三日は、退職後である。一般に、鉛の曝露の程度が減少し、あるいは曝露より離れると、尿中鉛濃度も減少するはずなのに、右検査結果は、鉛曝露がより大きかった配合作業従事期間の検査結果よりも著しく高い尿中鉛濃度を示している。また、両日の尿中コプロポルフィリンやALAの濃度はいずれも認定基準よりも低く、検査数値に整合性がない。

ハ 松岡医師は、原告に対し六十数回にわたり誘発法による尿中鉛濃度の検査を行なっている。誘発法を行なったときは、行わないときに比べて尿中鉛濃度は増加するのが通常であるのに、誘発法を行ったときの尿中鉛濃度の方が行わないときのそれより低い数値を示している。

ニ 血中鉛濃度が正常範囲内にありながら、同一の日における尿中鉛濃度が数千μg/lという数値を示したり、尿中鉛濃度が数千μg/lと高くても、同一の日における尿中のコプロポルフィリンやALAの各濃度が正常範囲内にあるなど、整合性を欠いた結果が認められる。

ホ 誘発法を行なったときの尿中鉛濃度が、近接した日でありながら数千から数十μg/lまで分散しており、通常考えられない奇妙な結果が認められる。

(2) 松岡医師の検査結果によるも、以下の理由から、原告を鉛中毒と認定することはできない。

イ 昭和四六年五月二四日の検査結果は、尿中コプロポルフィリンが基準を越えているのみで、他の検査数値は基準以下(赤血球数及び血色素量については基準以上)であるから、認定基準の2の要件を満たしていない。

ロ 同年六月三日についても、尿中コプロポルフィリンが基準を越えているのみで、認定基準の1ないし2の要件を満たしていない。

ハ 同年八月三〇日については、赤血球数及び血色素量が基準を下回っているが、他の検査数値については記載がなく、認定基準の1ないし2の要件を満たしていない。

ニ 同年一一月一一日については、尿中鉛が基準を越えているが、誘発法が試みられていたときの数値であることを考慮すると、異常値とはいえない。

ホ 四七年六月一〇日については、その検査数値が信用できないことは前述したとおりであるから、原告が鉛中毒であるとする根拠にはならない。

(3) 原告は、太田検査の結果が認定基準を満たしているので、鉛中毒に該当する旨主張するが、右検査結果は、以下の理由から、信用することができない。

イ 右検査が行われたのは、昭和四九年七月五日から同年八月一六日までの間であるから、原告が退職してから二年近く経っていた。原告は、その間に全く鉛の曝露を受けていないばかりでなく、松岡医師により六十数回にも及ぶ除鉛剤投与による徹底した鉛の排出治療を受けていた。他方、原告が職場に勤務し鉛の曝露を受けていた時期の尿中鉛、尿中コプロポルフィリンの各濃度は、いずれも正常範囲内にあった。したがって、鉛の曝露から離れた時期に鉛の曝露を受けていた時期より高い濃度を示していたことになり、これを中毒学の常識に反する。

ロ 大阪市立大学医学部付属病院での堀口俊一教授(以下「堀口教授」という。)による検査(太田医師による検査後約半年ほど経った昭和五〇年二月一七日より同年三月一日までの間に行われたもので、その結果は別紙六(略)記載のとおりである。以下「堀口検査」という。)の結果によれば、血中鉛、尿中鉛、尿中コプロポルフィリン、尿中ALA、全血比重、血色素量の各検査数値とも正常範囲内にあり、これは太田医師の前記検査結果と著しく異なる。

ハ 血中鉛が七〇μg/dlくらい以上になると、ほとんど例外なく、ALAとコプロポルフィリンの著明な増加がみられるようになり、ALAは二〇ないし四〇μg/ml(mg/l)、コプロポルフィリンは五〇〇ないし二〇〇〇μg/lを示すようになるはずである。しかるに、太田検査の結果では、血中鉛及び尿中鉛の各濃度は右数値に近いにもかかわらず、ALA及びコプロポルフィリンの各濃度はさしたる増加を示しておらず、整合性がない。

3  原告の症状についての判断

(一) 原告の症状については、多くの医師による多彩な記録が残されており、そのうちには、関節痛、筋肉痛、便秘、腹痛、食欲不振、倦怠感、不眠等、鉛中毒の認定基準に掲げられた症状に一見該当するようなものが幾つか見いだされる。しかし、これらの症状は、鉛中毒特有のものではなく、他の多くの原因によっても起こりうるものである。そこで、認定基準において鉛中毒と判断するためには、右要件の外に、「尿一l中に、コプロポルフィリンが一五〇μg以上検出されるか、又は尿一l中にデルタアミノレブリン酸が六mg以上検出されるものであること。」及び「血液一dl中に、鉛が六〇μg以上検出されるか、又は尿一l中に、鉛が一五〇μg以上検出されるものであること。」という二要件を満たす必要があるところ、原告が右症状を呈したときにおける尿や血液の検査結果は、これを満たしていない。

(二) 原告の症状のうちには、朝の関節のこわばり、左右多関節の運動時痛及び圧痛、少なくとも一つの関節の軟部組織の腫れ、皮下結節、典型的なX線像、リウマチ血清反応陽性等の症状が認められ、これはアメリカリウマチ協会による慢性関節リウマチの診断基準に照らすと、少なくとも「確実な関節リウマチ」と考えるのが妥当である。そして、他の症状及び検査結果とそれらの経過をみると、リウマチ及びその類縁疾病で説明できる。

四  被告の主張に対する認否

1  被告の主張1のうち、ほとんどすべての労働者に鉛による健康上の悪い影響が見られないと判断される濃度であったという点は争い、その余の事実は認める。

2  同2のうち、(一)については、前段の認定基準の存在は認めるが、後段については争う。(二)については、血液及び尿に関する諸検査の実施及びその結果については認めるが、その評価については争う。(三)については認める。(四)については争う。(五)については、(1)ないし(3)につき主張の如き検査データーが存在することは認めるが、その余は争う。

3  被告の主張3については、いずれも争う。

第三証拠

本件記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりである。

理由

第一  本件処分の存在

原告が、昭和四七年八月三一日、被告に対して労働者災害補償保険法による療養補償給付を請求したところ、被告は、昭和四九年五月八日、鉛中毒とは認めないとして右給付をしない旨の本件処分を行なったこと、原告が本件処分を不服として労働者災害補償保険審査官に対し審査請求をしたところ、右審査官は、昭和五〇年七月五日、右審査請求を棄却するとの決定を行なったこと、原告は更に労働保険審査会に対して再審査の請求をなしたが、同審査会も、昭和五六年二月二六日にこれを棄却するとの裁決をしたことは当事者間に争いがない。

第二  本件処分の適法性の有無

一  本件処分の適否は、原告の疾病が業務上の事由によるものであるかにかかる。

二  労働者災害補償保険法(昭和四八年法律第八五号による改正後のもの)一二条の八は、労働基準法七五条所定の災害補償事由が生じた場合に、補償を受けるべき労働者に対しその請求に基づいて療養補償給付を行うものとし、労働基準法七五条は「労働者が業務上…疾病にかかった場合」を災害補償事由と定めている。そして、労働基準法施行規則三五条(昭和五三年労働省令第一一号による改正前のもの)は、右労働基準法の規定の委任を受けて一定の職業性疾病を列挙しており、当該疾病を発生させるに足りる有害な業務に従事する労働者が当該疾病にかかった場合には、特段の反証がない限り、業務に起因する疾病として取り扱うことができると解される。しかして、同施行規則一四条には、「鉛…による中毒及びその続発症」があげられている。

本件において、原告が昭和三九年一月にミフロンに入社し塩化ビニール製簾等の製造に従事したこと、右製造過程ではステアリン酸鉛等鉛化合物を使用しており作業中鉛化合物を含む粉塵を呼気から吸入する可能性があったこと(ただし、その程度については争いがある。)、右製造業務は鉛中毒予防規則(昭和四二年労働省令第二号)一条五号チにいう「鉛業務」に該当していたことについては当事者間に争いがないから、原告の協同病院受診当時の疾病が鉛中毒症に該当するのであるなら、原告の右疾病は業務上の事由によるものと推定することができる。したがって、本件の争点は、原告の右疾病が鉛中毒症に該当するか否かにある。以下、この点を検討する。

第三  以下の事実のうち、二(一)、(二)(ただし、いずれも四六年七月の環境調査に関する部分は除く。)、五(二)、(三)の各事実については当事者間に争いがなく、その余の事実については、いずれも成立に争いのない(証拠略)によりこれを認めることができる。

一  原告がミフロンに勤務していた当時、ミフロンで製造する簾は、ポリ塩化ビニール二五キログラム、二塩基酸ステアリン酸バリウム二〇〇グラム、三基性硫酸鉛二〇〇グラム、ステアリン酸バリウム二〇〇グラム、二塩基性カドミウムまたはステアリン酸カドミウム二〇〇グラム、油六〇〇シーシー、D・B・P四〇グラム、色素粉五〇〇グラム、炭酸カルシウム三キログラムの割合の原料粉を計量、配合し、ミキサー中で撹はんし、次いで乾燥機の中で乾燥後筋にかけてから成型機(押出機)タンクに投入し、摂氏一二〇度に加熱、融解してからノズルより押し出し、水で冷やして一本のビニール簾の素材を作成し、これを利用して完成品に仕上げられるというものであった。右の原料中には、重量比にして一・三%程度の鉛化合物が含まれており、製造工程中、特に原料粉の計量、配合作業時、ミキサー投入時、篩作業時、成型機ホッパー投入作業時には粉塵となって空気中に飛散した。ミフロンでは、工場外への粉塵の飛散による公害の発生を恐れて作業中工場の窓を閉めていたから、換気が妨げられ、鉛化合物が呼気を介して作業従事者の体内に吸収される可能性がことさら存在した。

二(一)  ミフロンの作業場については、昭和三九年から四六年にかけて、数回の環境調査が行われ、別紙二記載(略)のとおり空気中鉛濃度が計測された。

(二)  当時の空気中鉛の許容濃度(日本産業衛生学会勧告値)は〇・一五mg/m3であり(昭和五七年以降は〇・一mg/m3)、三九年六月及び四六年七月の各調査に於ける測定値の多くは、これを越えるものであった(特に、四六年七月の右調査にあっては、操業は繁忙時の二分の一ないし三分の一程度であるにもかかわらず、このような結果が計測された。)。

(三)  昭和四六年七月の調査時点では、ミキサーの局排(局所排気装置)フードには改善の必要が認められ、局排ダクトには掃除口がないことが指摘されたほか、節下部の局排のダクトには破損箇所が多数認められた。

三  原告はミフロン入社後、昭和四七年七月に業務から離れるまでの間、昭和四六年六月から一一月までの療養期間中を除き右の配合作業にも従事し、特に少なくとも昭和四〇年一〇月から四七年三月までの間(右除外期間中は除く)は、主として配合作業を行なっていた。

作業中、労働の分担は必ずしも厳格に守られてはいなかったし、各作業は同一建物内で行なわれていた。

作業用に用意された防塵マスクは、使用時の呼吸が苦しくなるので、ほとんど使用されていなかった。

四  ミフロンにおいては、時間外労働が常態化しており、原告も入社以来別紙五記載のとおり、極めて長時間の時間外労働に従事していた。

五(一)  一般に、鉛中毒の臨床症状には、<1>貧血、<2>胃腸障害(食欲不振、便秘、腹痛、腹部不快感、全身の倦怠感、易労感等の訴えで表現されるもの。また、腹部のさし込むような痛みである疝痛、)、<3>神経、筋障害(知覚障害はほとんどなく伸筋群の運動障害を主とするもの。頭痛、筋肉痛、指、唇の震え、睡眠障害、末梢神経伝導速度の遅れなど)、<4>脳障害、<5>腎障害、<6>その他軽度の関節痛、などが認められる。

(二)  原告は、遅くとも昭和四一年ころから関節痛、筋肉痛を含む体の不調を覚えるようになり、同年四月以降今日までに多数の医療機関の診断を受けた。その間、原告の有した症状は多彩であるが、その中には右関節痛、筋肉痛のほか、腹痛、食欲不振、倦怠感、易労感、便秘等の鉛中毒の臨床症状に符合するものが多く含まれていた。

(三)  特に、昭和四九年七月ないし八月に太田医師が診察した際には、原告は、昭和四二年以降の病歴として鉛中毒の臨床症状に符合する多数の症状を訴えており、その中には太田医師が疝痛発作と判断した腹痛(昭和四六年一月ないし五月ころの症状)も含まれていた。

以上の各事実によれば、原告は、ミフロン入社以来、その業務中に鉛化合物を含む粉塵を相当程度吸収し続けた可能性があること、そして、入社後、鉛中毒の臨床症状に符合する多くの症状を呈していたことが認められるので、一応、鉛中毒を疑わせる状況にあったということができる。

これに対し、被告は、昭和三九年一二月以降のミフロンの環境調査(四六年七月の製簾業実態調査を除く。)では、許容濃度を越える空気中鉛濃度は測定されていないこと、右製簾業作業環境調査の結果は不分明であり測定値に疑問があること、高い濃度が測定されれば改善がなされたはずであること、などを主張する。

そして、前掲甲第四四号証、第六七号証によれば、確かに、第一回調査後、昭和三九年一二月一一日までの間に、篩機が導入されて手篩から機械篩作業に移行した外、ヘシルミクサー上部、機械篩中、ホッパーにそれぞれ吸気口が設置されるなどの改善が図られたことが認められる。

しかし、(証拠略)によれば、右製簾業作業環境調査は、昭和四六年四月に岡山大学の緒方教授から、<1>水島地区の他の製簾工場に勤務していた元労働者に鉛中毒が再発したこと、<2>関連企業について教育改善の必要があることなどを指摘されたのをきっかけにして行われたものであること(その実施の打ち合わせの過程では、緒方教授より、各工場の局排のサンクションが一般に弱いので馬力アップが必要であること、健診結果からみて環境改善の必要があることが指摘されているだけでなく、各業者からも局排がかなり傷んでいるので効果が落ちていることが言われている。)、その結果、別紙二の2記載のとおり、許容濃度を越える空気中鉛量が測定されたことが認定できるのであり、また、原告が(証拠略)で主張するように、各環境調査時には、通常の作業時よりも作業環境が整えられていた可能性も否定できないことや、(証拠略)によればミフロンにも現実に鉛中毒の診断のもとに入院させられた従業員が存在したと認められることを考慮すると、原告の勤務していた当時のミフロンにおける作業環境が、鉛中毒の発生を疑わしめる状況にあったことまで否定することはできない。

第四  しかし、他面において、(証拠略)によれば、以下の事実が認められる。

<1>  原告の各症状中には前記のとおり鉛中毒によって説明できるものがあるものの、それらは鉛中毒にのみ特有な症状ではなく、他の疾病によっても生じうるものであり、また、前記認定の作業環境のもとに従事する労働者が必ず鉛中毒にかかるとはいえない。したがって、前記第二認定の各事実(作業環境、労働条件、症状等)をもって直ちに原告が鉛中毒であると認定することはできない(特に本件の場合は、後述のように、原告の症状は慢性関節リウマチの特徴を極めて多く有しているのであるから、なおさらである。)。

<2>  血中鉛とその他の生体反応及び自他覚症状間には相関関係が存在し、その内容は相当程度明らかになっている。即ち、空気中の鉛が肺から吸収され血液中に溶け込んで血中鉛が増加するにつれ、デルタアミノレブリン酸脱水酵素活性の低下、赤血球中遊離プロトポルフィリン、尿中コプロポルフィリン、尿中デルタアミノレブリン酸、尿中鉛の各増加、貧血その他の中毒症状が順次現れる。

これを数値を含めて考察すると、血中鉛量が四〇ないし八〇μg/dlになると、尿中コプロポルフィリンは一五〇ないし五〇〇μg/lを、デルタアミノレブリン酸は〇・六ないし二mg/lを、尿中鉛は八〇ないし一五〇μg/lを示すに至る。そして、右状態が継続するか更に血中鉛量が増加すると、尿中コプロポルフィリン及びデルタアミノレブリン酸は更に増加し、中毒症状が現れる。貧血(ただし、明瞭な貧血は通常八〇μg/100g以下では起こらない。)及び胃腸障害、食欲不振、便秘(ただし、長期間にわたって継続する異常な便秘は一〇〇μg/100gを越えなければ起こらない。)、腹痛(ただし、疝痛は一八〇μg/dlあたりから出現する。もっとも、八〇μg/dl前後あるいは四〇ないし六〇μg/dlレベルでの疝痛発作の報告もあるとされるが、それが定説であるとまでは認められない。)、腹部不快感、全身倦怠感、易労感は七〇ないし八〇μg/dlあたりから出現し、末梢神経、筋の障害(知覚障害は軽度で、運動障害が中心。主として伸筋群の麻ひや萎縮を伴う。)は一八〇μg/dlあたりから多く出現する。末梢神経伝導速度の遅れは八〇ないし一二〇μg/100g程度ではっきり現れる(四〇ないし六〇μg/100gくらいでも極めて軽度のものは現れるとする報告もあるが、定説とはなっていない。)。中枢神経系の障害(脳障害、頭痛・不眠・興奮などの自覚症状)、腎障害、軽度の関節痛、については、極めて高度の鉛曝露によって出現する。

結局、血中鉛量に関しては、六〇ないし八〇μg/dlくらいが臨床的な鉛中毒発現の限界値となっている。

<3>  したがって、鉛中毒であるかどうかの判断は、自他覚症状と生体反応についての検査所見との総合判断で行わなくてはならないというべきである(なお、この場合、実際には鉛測定の誤差は大きいから、ある種類の検査所見のみで判断するのではなく、できるだけ多くの検査項目を総合的に判断することが必要である。)。

以上のとおり認められるところ、鉛中毒の認定については、その基準として、労働省労働基準局長の通達により別紙三(略)のとおり認定基準が作定されていることは当事者間に争いがない。そして、(証拠略)によれば、認定基準に定められた尿中コプロポルフィリン、尿中デルタアミノレブリン酸、血中鉛、尿中鉛に関する数値は、一般的には、これらの数値を越えた場合に、鉛中毒によって生じうる症状のうちの軽微なものが発現することもあると考えられているものであり、鉛中毒の早期発見、早期治療を期する上から採用されたものであって、療養補償給付の可否につき鉛中毒であるか否かを判断する上で合理性を持つものと認めることができる。したがって、この数値も念頭に置いて、以下、前記の観点から原告の症状を検討する。

一  原告が、ミフロン入社以降、主なものとして以下の内容の各検査を実施されたことは当事者間に争いがない(ただし、協同病院における検査の結果については、いずれも成立に争いのない<証拠略>により認めることができる。)。

1 鉛健診

昭和三九年六月以降、原告がミフロンにおける業務から離れた昭和四七年七月までの間に、岡山大学医学部緒方、小坂両教授及び木村医師らによって、ほぼ年二回の割合で定期的に、鉛に関する健康診断(鉛健診)が行われた。その結果は、別紙四記載(略)のとおりである。

2 非定期的な尿中鉛の測定

原告は、ミフロン在勤中、鉛健診以外にも、別紙七記載の尿中鉛の測定(以下「非定期健診」という。)を受けた。

3 協同病院における諸検査

原告は、昭和四六年五月二四日以降協同病院で受診するようになり、三回の入院(昭和四六年六月二四日から一〇月四日まで、同年一一月八日から一二日まで、四七年八月一日から四九年七月二日まで)を含めその受診中に鉛中毒の疑いのもとに諸検査(以下「協同病院検査」という。)を実施された。その結果は、別紙八記載(略)のとおりである。

4 太田検査

原告は、協同病院を退院後、前述のとおり昭和四九年七月から八月にかけて太田医師の診察を受け、その際、鉛中毒の疑いのもとに太田検査を実施された。その内容は、別紙一該当欄記載(略)のとおりである。

5 堀口検査

原告は、昭和五〇年二月一七日から同年三月四日までの間、大阪市立大学医学部付属病院に入院し、堀口教授らによる堀口検査を受けた。その結果は、

別紙六記載(略)のとおりである。

二  右各検査のうち、非定期健診及び堀口検査においては、前述の生体反応の特性や認定基準に照らして、異常とみられる結果は現れなかったが、それ以外の検査においては、以下の事実が認められた。

1 三九年六月の鉛健診の検査結果(以下「三九年六月検査値」という。)は、認定基準を完全に満たすものではないものの、全血比重は認定基準の数値を下回るもので、ヘモグロビンの検査結果(<証拠略>によれば、ザーリー法による六七%の結果は、血色素量一〇・七八g/dlに相当することが認められる。)とともに原告の貧血を示したほか、好塩基点赤血球が六‰という高値を示し、尿中コプロポルフィリンは、定性でプラスマイナスと判断された。

2 昭和四一年六月の鉛健診において、尿中コプロポルフィリンが、認定基準一五〇μg/lを越える一七三μg/lを示しており、四二年七月の鉛健診における赤血球数(四一〇万個)が基準値(四二〇万個)を下回ったほか、四四年六月の鉛健診の際には、尿中コプロポルフィリンは基準値に近い一三六・二μg/lを示した。

3 協同病院検査の結果によれば、

(一) 昭和四六年五月二四日及び六月三日の尿中コプロポルフィリンの値(二四九μg/l、一六八μg/l)並びに同年八月三〇日の赤血球数(三九二万個)が、基準値に合致した。

(二) 昭和四七年六月一〇日の検査結果によると、血色素量(一二・三g/dl)が基準値を充足し、血中鉛(一二六μg/dl)、尿中鉛(一五四〇μg/dl)はいずれも基準値を越えた。赤血球数(四二二万個)は基準値に近接した。

(三) 昭和四七年八月三日の検査結果によると、血中鉛(一五九μg/dl)、尿中鉛(二八〇〇μg/l)が基準値に合致するほか、尿中コプロポルフィリン(一二五μg/l)は基準値に近接した。

(四) 前掲認定基準によれば、誘発法を行なった場合の基準(以下「誘発基準」という。)として、Ca―EDTAの注射開始から二四時間内の全尿中に五〇〇mg以上の鉛が検出されることが要件とされていることが認められるところ、原告においては、四七年八月四日以降のCa―EDTAによる誘発において測定された尿中鉛量は極めて多量であり、誘発基準を優に上回る数値を多数回示した。

4 太田検査の結果によると、全血比重、赤血球数、血色素量、血中鉛量、尿中鉛量、尿中コプロポルフィリン、尿中デルタアミノレブリン酸のいずれの数値も基準値を上回っており(全血比重、赤血球数、血色素量については下回っている。)、原告の訴えた症状を勘案すれば、形式上、認定基準の1項及び2項を完全に満たす結果となった。

また、昭和四九年七月三〇日に、太田医師の依頼を受けた友国岡山大学医学部講師(当時)が、原告の血中デルタアミノレブリン酸脱水酵素活性値を測定したところ、〇・一一五μmoIPBG/hr/ml of Erythrocytesという極めて低い値を示した。

(証拠略)によれば、デルタアミノレブリン酸脱水酵素活性値は、鉛曝露の指標として鋭敏であり、かつ鉛曝露を離れた後もその低下が長く続く性質を有していること、友国講師は、デルタアミノレブリン酸脱水酵素の研究では権威者であったことが認められる。

三  しかしながら、右の各事実は、原告が鉛中毒であることを認定する根拠にはならないというべきである。

1 三九年六月検査値について

(証拠略)の結果によれば、昭和三九年六月の環境調査の結果及び三九年六月検査値を考慮すると、昭和三九年一月ミフロン入社以降、同年六月の第一回鉛健診に至るまでの間、原告には鉛の職業性曝露があり、正常人以上の鉛吸収があったことが認められるが、(証拠略)によれは、高度の鉛中毒に罹患していたものではなかった(鉛健診の判定はBとなっており、管理区分Bの評価は、労働者に対する当然の就業制限や治療行為の行われる管理区分Cの場合とは異なり、医師の意見による当該業務への就業制限や医師の指導に基づく検査が行われる段階に止どまる。)ことが認められる。

しかして、第二回の鉛健診以降原告は鉛中毒であると認めるに足りる検査結果を示していないのであるから、右事実をもって協同病院受診時の原告が鉛中毒に罹患していたと認める根拠にはならない。

2 昭和四一年六月、四二年七月及び四四年六月の各鉛健診の結果について右各検査結果は、全体としては認定基準を満たすものではなかった。そして、(証拠略)によれば、認定基準に定める個々の検査項目のうち一つの数値が基準値に合致していたとしても、そのようなことは正常な人でもありうることであるから、直ちに鉛中毒であると認定することはできないのであり、同時に測定された他の項目の検査結果や次回検査時の検査数値等を総合的に考慮して診断しなくてはならないことが認められる。この見地からすると、昭和四一年六月、四二年七月、四四年六月の各検査では他の検査項目については異常値は示されていなかったこと、次回検査でも当該項目の異常は発現していないことが認められるから、これらをもって原告の鉛中毒の根拠とすることはできない。

なお、この点に関し、(証拠略)原告は、検査に供された尿の水割りや労働者間での流用が行われたことなどを挙げて、鉛検診はいいかげんなものでありその結果を信用することはできない旨供述していることが認められる。

しかし、原告は、昭和四一年以降体の不調を訴えて多数の医療機関を受診していたことは前述のとおりであり(特に、成立に争いのない<証拠略>によれば昭和四六年四月二〇日には鉛を扱っていたことを訴えて岡山大学医学部整形外科を受診していることが認められる。)、鉛健診が行われていたころ、遅くとも昭和四一年以降は、自分の健康状態(体の不調)を意識していたと推測できるから、右供述はにわかに採用できない。また、鉛健診は尿についてのみ実施されたのではなく、同時に血液の状態についても検査が行われており、それとの相関も考慮しているものと推認され、前記原告の供述は前記判断を左右するに足りるものではない。そして、他に、鉛健診の結果が信用できないことを認めるに足りる証拠はない。

3 協同病院における検査結果について

(一) 昭和四六年五月二四日、六月三日、八月三〇日の各検査数値については、右2で述べたと同様の理由から、原告の鉛中毒の根拠とはできないというべきである。

(二) 昭和四七年六月一〇日の検査結果について

右検査結果は、全体としては認定基準を満たしていないだけでなく、個々の数値が、必ずしも信頼できるものとはいえない。なぜなら、

(1) 右検査では、血中鉛量及び尿中鉛量が非常に高い数値を示しているのに対し、尿中コプロポルフィリン及びデルタアミノレブリン酸の検査数値は、正常の値を示している。これは、(証拠略)の結果及び前記認定の生体反応相互間の相関関係によると、不自然である。

(2) (証拠略)によると、原告は、昭和四六年五月から同年一二月にかけて休職し、復職した後も四七年三月中以降は配合係から成型係に移り同年七月まで働いて退職していること、復職後の労働時間は、休職前に比べて大幅に減少していることが認められる。したがって、四六年五月以降は鉛の曝露量は減っているはずであり、少なくとも増加してはいなかったはずであるにもかかわらず、四六年五月以前に特記すべき検査数値を示していなかった原告が、突如四七年六月に至って、非常に高い検査数値を示すのは不自然である。また、原告は、昭和四六年一一月一〇日に協同病院で誘発法を受け、その際には血中鉛、尿中鉛ともに異常値を示さなかったのに、誘発法を受けていない四七年六月一〇日にこれを大きく上回る異常値を示すのは説明がつかないところである。

(三) 昭和四七年八月三日の検査結果についても、(二)と同様の矛盾がある(原告は、四七年七月には退職しているのだから、なおさらである。)。

(四) 協同病院における昭和四七年八月四日の誘発法実施以降の数値についても、以下の理由からにわかに採用することができない。

(1) (証拠略)によれば、血管内に注入されたCa―EDTAは、血流中及び臓器中の易移動性の鉛(Pb)を一挙に捕らえ、これと結合してPb―EDTAの形となり、血流を介して尿中に排出すること、したがって、<1>Ca―EDTA投与後の尿中鉛量は一旦は投与前よりも増加すること、<2>しかし、易移動性の鉛は誘発を繰り返すにしたがって漸次減少してくるから、誘発の回数を増すに従ってCa―EDTA注入初日に計測される尿中鉛量も漸次減少していくこと、<3>Ca―EDTAの注入による尿中鉛量の増加が計測されるとともに、血中鉛、デルタアミノレブリン酸、尿中コプロポルフィリン等の増加も計測されるはずであることが認められる。

しかるに、協同病院における四七年八月四日以降の誘発法を実施した際の検査結果を見ると、<1>Ca―EDTA投与前の尿中鉛量の方が投与後よりも高値である(四七年八月三日と五日)こと、<2>誘発の回数を増しても、上記のような尿中鉛量の減少傾向が明確には認められず、ばらつきが極めて大きいこと、<3>尿中鉛量が極めて高い数値を示している場合でも同日の血中鉛、尿中コプロポルフィリン、デルタアミノレブリン酸等が必ずしも増加していない場合が多くみられる(特に昭和四八年九月以降)ことが認められる。

(2) 原告は、前述のとおり昭和四六年一一月一〇日にも誘発法を試みられており、そのときには、尿中鉛量は特に異常を示さなかった。ところが、四七年八月四日に誘発法を実施してから突如極めて高い数値を示すようになり、この状態が四八年一二月まで継続した。(証拠略)によれば、鉛は一旦体内に吸収されても体内蓄積量に比例した排せつがおこなわれるから鉛曝露が止めば鉛の体内蓄積も減少することが認められ、また原告が昭和四六年五月以降一二月にかけて休職していること、四六年一二月に復職してからは、四七年三月まで配合係として勤務した後、配合係に比べて鉛曝露の程度が小さい成型工に変わり同年七月まで働いてその後退職していること、復職後の労働時間は休職前に比べて大幅に減少していたことは前記のとおりであるところ、三九年一月以来四六年五月までの間鉛の曝露を受けてきた(しかも、<証拠略>によれば、その多くの期間を鉛曝露の程度が大きい配合作業を中心として作業してきたことが認められる。)と考えられる原告が、(四六年五月から六箇月余の休職後誘発法を実施されても尿中鉛の増加を見せなかったのに)、鉛曝露より完全に離れてから長期間にわたって高濃度の尿中鉛を示すのは不自然である。

したがって、協同病院の鉛誘発による検査結果は、にわかには信頼できないのであって(なお、証人原一郎の証言によれば、協同病院の鉛誘発の検査数値については比較的短期間に測定値の変動が非常に大きいので、同証人もあまり信頼を置いていなかったことが認められる。また、証人松岡健一の証言によれば、松岡医師自身も、特に昭和四八年九月四日以降の誘発法の結果については、納得しにくい点があることを認識していたことが認められる。)、これをもって原告の鉛中毒の根拠とすることはできない。

4 太田検査の結果について

太田検査の検査結果は、形式上認定基準を完全に満たす結果となっている。しかしながら、右検査結果は、説明困難な内容を含むものであり、信頼することはできない。

(一) 原告は、昭和三九年六月健診の際に鉛摂取の影響と考えられる検査数値を示したものの、その後の諸検査においては、(これまで述べてきたように個々的に若干高い数値が示されたことはあるが、)太田検査に至るまで、鉛吸収の影響を受けたことを裏付けるに足る数値を示さなかった。

(二) 原告は、前述のとおり、昭和四七年三月をもって、鉛吸収の程度が高いと認められる配合係から離れているだけでなく、同年七月以降退職により完全に鉛曝露から離れている(したがって、太田検査が行われた四九年七月までの約二年間は鉛曝露を受けずにいたことが認められる。)。前述のとおり、鉛曝露から離れた場合には体内の鉛蓄積も減少することが認められるのであるから、それまで鉛の蓄積を示す生体反応を示していなかった原告が、太田検査の時期になって突然異常値を示すのは不自然である。

更に、原告の場合は、鉛曝露から単に離れたというだけではなく、(証拠略)によれば、鉛曝露の続いていたと考えられる四六年八月から退職後の四八年一二月にかけて延べ六〇数回にもわたりCa―EDTAによる徹底的な鉛の誘発治療を受け、その後に太田検査を受けていることが認められるのであるから、体内の鉛蓄積量は、それ以前よりも大幅に減少しているはずであって、太田検査の結果はなおさら不自然であるといわなくてはならない。

(三) 太田検査の約半年後である昭和五〇年二月に行われた堀口検査によれば、原告が鉛中毒であることを示す数値はあらわれていない(<証拠略>によれば、大阪市立大学医学部は、鉛中毒の検査につき実績を有していたことが認められる。)。そして、鑑定人館正知の証言によれば、測定誤差を考慮せずに太田検査と堀口検査の両者を整合的に説明することが困難であること、一連の経過から判断して、堀口検査の方が医学的に説得的であることが認められる。

(四) また、(証拠略)によれば、血中鉛量、尿中鉛量の増加と、尿中デルタアミノレブリン酸及び尿中コプロポルフィリンの増加とは顕著な相関関係があるのであって、血中鉛が七〇μg/dl、尿中鉛が一六〇μg/lくらい以上になると、ほとんど例外なく尿中デルタアミノレブリン酸は二〇ないし四〇μg/ml、尿中コプロポルフィリンは五〇〇ないし二〇〇〇μg/lを示すようになることが認められるところ、昭和四九年八月一六日の太田検査の結果によれば、血中鉛が右数値に近い数値(六七・二μg/dl)を示し、尿中鉛は大幅に上回る数値(二八〇μg/l)を示しているのに、尿中コプロポルフィリン及びデルタアミノレブリン酸の数値(二〇六・四μg/l、六・二〇mg/l)は、各数値を大きく下回った結果しか見せていない。以上の各事実によれば、認定基準に合致する太田検査の結果はにわかに採用することができず、これをもって原告の症状が鉛中毒によるものであると判断することはできないものというべきである。

また、デルタアミノレブリン酸脱水酵素活性値の低下についても、(証拠略)によれば、デルタアミノレブリン酸脱水酵素活性値は非常に鋭敏であり血液中にわずかの鉛が存在しても低下すること、したがって、食物や大気中の鉛を摂取した場合であってもある量以上になると鋭敏に反応してしまい、それだけで鉛中毒であるか否かを判断するのは不適当である(曝露レベルが低い場合は役立つが、通常の職業的な曝露の程度を評価するには末梢血プロトポルフィリンや、尿中デルタアミノレブリン酸などの方が適している。)こと、鉛曝露を離れても長期間にわたって顕著な低下を示すので、昭和三九年六月ころに一定程度の鉛曝露が存在した原告については特に指標として採用しにくいことが認められるから、太田検査時の原告が鉛中毒であったことを裏付けるものとして評価することはできないところである。

三  結局、以上の各事実は、いずれも原告の鉛中毒を基礎付けるものとは認められず、各検査結果において、他にこれを裏付ける生体反応は出現していない(なお、伊丹仁朗医師のもとでの検査結果については後述する。)。したがって、前述した鉛中毒における生体反応や症状の相関関係、認定基準等に照らすと、原告を鉛中毒であると認めることはできない。

むしろ、(証拠略)によれば、原告には、少なくとも、朝のこわばり、一関節以上の運動痛か圧痛、一関節以上の腫脹、皮下結節(ただし、発生部位は特徴的ではない。)、リウマチ血清反応陽性の各所見が明らかに認められ、これをアメリカリウマチ協会による慢性関節リウマチの診断基準に当てはめると「確実な関節リウマチ」となり、リウマチ性疾患の鑑別診断の手引きに照合してみると古典的なリウマチ疾患と診断されることが認められ、原告の疾病は慢性関節リウマチである可能性が極めて大きいということができる。

第五  もっとも、原告の症状については、これが鉛中毒によるものであるとする専門家による診断もなされているので、以下順次この点を検討する。

一  松岡医師の診断について

(証拠略)によれば、松岡医師は、昭和四六年五月二四日以降、鉛中毒ではないかと訴えて受診してきた原告を診察し、昭和四七年六月一〇日の検査結果に基づいて、同年八月三日に、原告が鉛中毒である旨の確定診断を行なったことが認められる。そして、<1>原告には鉛中毒に見られる多くの症状が認められ、長く継続していること、<2>原告の労働条件、職歴等、鉛曝露を受けた生活環境、<3>協同病院検査の結果、を考慮して、原告が鉛中毒であると判断していることが認められる。

しかし、鉛曝露の存在及び症状のみで鉛中毒であると認定できないこと、協同病院検査の結果が信頼できないことはいずれも前述したとおりである。したがって、松岡医師の診断をもって、原告が鉛中毒であると認めることはできない。

二  太田医師の意見について

(証拠略)によれば、原告の疾病につき相談を受けた太田医師は、昭和四九年七月ないし八月に、下津井病院に入院中の原告を診察し前記太田検査を実施した結果、<1>原告の症状が、鉛中毒で認められる症状に合致していること、<2>鉛中毒に関する検査結果が、鉛中毒であることを示していること、<3>原告のミフロンにおける職務内容、労働条件、職場環境等からみて、高い鉛の曝露があったと推測されること、<4>協同病院において誘発法による除鉛を実施したことにより、それ以外の診療を行なっていないにもかかわらず症状が改善したこと、などの理由から、明らかな鉛中毒であると判断したことが認められる。

しかしながら、右見解を採用することはできない。

1  前記各証拠によれば、太田医師は、太田医師による診察時に原告が訴えた症状、病歴等を中心に検討を加え、原告の症状の中心が鉛中毒による症状に合致すると判断したことが認められる。

しかし、前述のとおり、原告は、昭和四一年ころから多数の医療機関を受診し、種々の診断を受けているところ、そこで訴えている症状の中心は関節症状であったことが認められるのであり、(証拠略)によれば、原告の関節症状については慢性関節リウマチによる可能性が最大だが、仮にそうでないとしても、鉛中毒によるということはできないことが認められる。

また、原告の症状中右以外の鉛中毒によって生じうる症状についても、鉛中毒以外の原因によっても生じうるものであり、症状だけから鉛中毒によると判断できないことはすでに述べたとおりである。

なお、太田医師は、原告の伸筋麻ひの存在を推定しており、(証拠略)によれば、認定基準の3項には、「鉛の作用によることが明らかな伸筋麻ひが認められるものであること」が規定されている。

しかし、伸筋麻ひの所見は太田医師が指摘するまで原告が受診した多数の診療機関では指摘されていないのであり、(証拠略)によれば、「発症時期を考慮すると鉛中毒による伸筋麻ひがその他の鉛中毒症状ならびに検査所見を伴わず単独に出現することはおこりえないところであり、その症状からも鉛による伸筋麻ひとは考えられず、鉛中毒以外の疾患によるものと考えられる。」と評価されているのであって、鉛による伸筋麻ひであると認定することはできないというべきである。

2  太田医師が指摘する各検査結果(協同病院検査の結果、太田検査の結果、鉛検診の結果)が、原告の鉛中毒の根拠として採用できないものであることはすでに述べたとおりである。

3  原告の職務内容、職場環境等からみて、原告に相当程度の鉛曝露の可能性があったことはすでに認定したとおりである。

しかしながら、鉛曝露が、鉛中毒をもたらす程度のものであり、実際に原告が鉛中毒となったのであるなら、それに伴って一定の生体反応が生じて検査結果として発現するものであるから、右事実から、直ちに原告が鉛中毒であることを認定することができないこともすでに述べたとおりである。

なお、太田医師は、職場環境が劣悪であった根拠として、堆積粉塵の定性分析の結果、鉛等が高濃度で含有されていたことを挙げるが、右粉塵の試料は、その入手事情が必ずしも明確ではないから(証人太田武夫の証言によれば、太田医師は、右試料を原告の支援者から入手したことが認められるが、右支援者による具体的採取の事情は明らかでない。)、右分析結果をそのままミフロンにおける職場環境の推論に利用することはできないし、この点を置くとしても、右記の判断を左右するものとはいえない。

4  前述のとおり、協同病院において多数回の誘発法が試みられたことが認められ、また(証拠略)によれば、協同病院入院中である昭和四七年七月から翌四八年七月にかけて原告の症状の一部は改善されていることが認められる(ただし、原告本人尋問の結果によれば、ミフロン退職後六一年四月まで、症状は同じ程度に続いていると感じていることが認められるから、右症状の改善は、大きなもの、あるいは継続的なものではなかったと推認される。)。

しかしながら、前述のとおり、原告の症状は慢性関節リウマチによるものである可能性が高いところ、(証拠略)によれば、慢性関節リウマチは治療のいかんにかかわらず約五〇パーセントは数年のうちに改善し、そのうち一五ないし二〇パーセントは完治することが認められるほか、(証拠略)によれば、原告は協同病院入院中誘発法以外の治療も受けており、松岡医師の内科診療と平行して、整形外科の診療も受けていたものであり、主として関節リウマチを対象とした治療が実施されていたことが認められるから、右事実をもって直ちに鉛中毒の根拠とすることはできない。

三  原一郎教授の鑑定について

いずれも成立に争いのない(証拠略)によれば、関西医科大学公衆衛生学の教授である原一郎(以下「原教授」という。)は、岡山地方裁判所昭和五〇年(ワ)第五四三号損害賠償請求事件において鑑定を求められ、原告のミフロン入社後約一〇年間の疾病は、関節症状については慢性関節リウマチの可能性が最大であり鉛中毒によるとは考えられないこと、関節症状以外の症状については、慢性関節リウマチが最も近い病名と考えられるが鉛中毒が合併したものであると判断したことが認められる。そして、関節症状以外の症状につき鉛中毒が合併していると判断した根拠として、<1>原告には、大きな鉛曝露あるいは鉛の体内蓄積が相当長期間にわたって持続していたと考えられること、<2>入社した初期(昭和三九年六月ころ)に、原告には鉛中毒があったことを挙げている。

しかし、鉛中毒の合併を認める右見解を採用することはできない。

1  原教授は、原告に大きな鉛曝露があったとする根拠の一として、昭和三九年六月及び四六年七月の岡山大学医学部緒方教授らによる環境調査の測定値を挙げている。右各調査において、ミフロン連島工場で許容濃度を越える高い濃度の空気中鉛が測定されたことは前述したとおりである。

しかし、右許容濃度の性格をどう評価するかは置くとしても(証人館正知は、許容濃度の数値は、常時一日あたり八時間労働で生涯(四〇ないし五〇年)を曝露のなかで働いて大部分の人が健康障害を起こさないという濃度であって、これを若干上回っているからといって、健康障害が必ず起こるものと扱ってはならないと証言している。また、成立に争いのない(証拠略)によれば、許容濃度は、一日八時間週四〇時間程度の労働時間中に、肉体的に激しくない労働に従事する場合の曝露濃度の算術平均値がこの数値以下であれば、ほとんど全ての労働者に健康上の悪影響がみられないと判断される濃度であるとされている。他方、原教授は、その証言中で、前掲堀口教授が〇・〇五mg/m3という基準値を提唱したことを挙げ、〇・一五mg/m3以下でも大丈夫と言えないことを強調している。)、証人館正知の証言及び前記生体反応の相関関係に関する認定事実によれば、健康障害の出現するような空気中鉛量のもとで常時働いていて高い濃度の鉛曝露を受けた場合には必ず鉛による生体反応が現れることが認められるところ、原告は、昭和三九年六月当時にあっては鉛の影響を認めるに足りる反応を示したものの、その後においては、そのような値を示していない。

2  原教授は、原告の鉛曝露の根拠として、原告の鉛による生体反応(鉛健診の結果、協同病院検査の結果、太田検査の結果)を挙げている。

しかしながら、原教授は各生体反応の正常値を中毒予防の観点から認定基準に比して低く把握したうえで判断していること、鉛健診の結果及び協同病院検査の結果については、個々的な数値を単独に取り上げて直ちに問題にすることができないことは前述したとおりであること、四七年六月以降の協同病院検査の結果及び太田検査の結果はすでに述べたとおり必ずしも信頼できるものではないこと(原教授自身、協同病院検査には測定誤差がある可能性を認めているほか、太田検査の結果と堀口検査の結果との差異について、明確な解釈が難しい―どちらかに測定誤差が含まれている可能性がある―ことを認めている。)、太田医師に依頼された友国講師のデルタアミノレブリン酸脱水酵素活性値の測定については(その測定が信頼できるものだとしても)、前述したとおり、性質上直ちに鉛中毒の根拠とはできないこと、などが認められるから採用できない。

3  結局、原教授の判断につき、原告の症状が鉛中毒の合併したものだと認めるに足りる根拠はないというべきである。

四  難波玲子医師の意見について

(証拠略)、証人難波玲子の証言によれば、岡山大学医学部神経精神学教室医師難波玲子(以下「難波医師」という。)は、昭和五一年三月二三日に原告を診察したうえ、<1>原告のミフロン就業中における鉛曝露の存在、<2>鉛中毒を疑わせる諸症状の存在、<3>鉛中毒を疑わせる生体反応(検査結果)の存在、<4>ステロイド未使用、Ca―EDTA投与によって症状が軽快していること、<5>就業と症状の悪化とが相関関係を示していること、<6>右<5>の理由及び多発性関節リウマチにみられる変形の存在しないことから多発性関節リウマチとは認められないこと、などの理由で、原告の一連の症状は鉛中毒によるものと考えるのが最も妥当である旨判断したことが認められる。

しかしながら、右<1>ないし<2>がそれだけで直ちに理由にならないことはすでに述べたとおりである。また、<3>及び<4>がそのまま認められないことも同様である。<5>についても、原告本人尋問の結果によれば、ミフロン退職後六一年四月まで、原告の主観においては症状は同じ程度に続いていたことが認められ、また、仮に難波医師の主張する(証拠略)の病状の経緯によっても、原告の休職期間中(昭和四六年五月ないし一二月)には鉛曝露が存在しないのに多くの症状につき変化(軽快)が認められていないこと、復職後鉛曝露の程度は減少していると推測される(前述のとおり、原告は昭和四七年三月に配合係から成型係に変わっているほか、以前に比べ労働時間も大幅に短縮していることが認められる。)のに急激に症状が悪化したことが認められるから、必ずしも明確な相関関係があるということはできない。<6>については、前記認定に反し、採用することはできない(<証拠略>の証言によれば、難波医師の根拠とする点は、関節リウマチを否定する決定的な根拠にはならないと認められる。)。

五  堀口教授の意見について

成立に争いのない(証拠略)によれば、堀口教授は、原告の症状は、総合的には、過去の鉛取扱い作業に起因する健康障害であるとの可能性も十分考えられる旨の意見書を提出したことが認められる。

しかしながら、堀口検査は鉛中毒を裏付ける結果を全く示していなかったこと、右意見書の内容を素直に読めば鉛中毒によると見るべき積極的理由はなんら示されておらず、堀口教授は一つの可能性として鉛中毒もありうるといっているにすぎないことが認められ、また、成立に争いのない(証拠略)によれば、現在では堀口教授も原告の症状が鉛中毒によるものとは考えていないことが認められる。

六  伊丹仁朗医師の診断について

(証拠略)によれば、兵庫県勤労者医療生活協同組合神戸診療所の伊丹仁朗医師(以下「伊丹医師」という。)は、下山内海病院の田中克子医師(以下「田中医師」という。)から原告の診療を受け継ぎ、<1>原告の症状、<2>原告の生体反応に関する検査(以下「伊丹検査」という。)の結果、などを考慮して、田中医師同様原告の症状が鉛中毒(慢性鉛中毒症)によるものであると判断したことが認められる。

しかし、原告の症状が、直ちに右判断の根拠にならないことは、すでに述べたとおりである。また、昭和五一年七月二二日の伊丹検査によれば、赤血球三七九万個/m3、血色素量九・六g/dl、(ザーリー法)六〇%、網状赤血球一六‰、好塩基点赤血球(一)等の結果が測定されており、赤血球数、血色素量は基準値以下であることが認められるが、同年一〇月二四日の検査では血中鉛二四・一μg/dl、尿中鉛九六・二μg/lであり、翌五二年五月二六日の検査では、赤血球数四三四万個/m3、血色素一二・二g/dl、七六%、ヘマトリット三八%、網状赤血球三‰、好塩基点赤血球(一)であって、(証拠略)によれば、この成績から鉛中毒と診断することはできないことが認められる。また、同年一二月一五日の検査では、赤血球数四一九万個/m3、血色素量一二・七g/dl、七九%、ヘマトリット三九%、網状赤血球数五‰等の結果が計測されているが、これについても同様である。(なお、仮に伊丹検査の結果を異常であると判断したとしても、すでに太田検査や協同病院検査につき述べたと同じように、原告が鉛曝露から離れた時期や協同病院における誘発法による除鉛の実施等の関係で、この時期に至って異常が生じる理由を合理的に説明することは困難である。)

結局、原告の症状が鉛中毒によるものであるとする各見解はいずれも採用することができず、他に、これを認定するに足りる証拠はない。

第六  以上の次第で、原告の疾病が業務上のものであると認めることはできず、結局本件処分は適法であって原告の請求は理由がないからこれを棄却することにし、訴訟費用につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 梶本俊明 裁判官 三島昱夫 裁判官登石郁朗は転補のため署名捺印することができない。裁判長裁判官 梶本俊明)

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